-
失われた屋号を求めて
第17回 記憶の触りかた
鳴き始めた蝉の声にまだ耳が戸惑っている。絶えず聞こえている耳慣れないこの音が蝉の声だと認識するまで、ほんの少しのタイムラグが発生するのだ。「夏」「音」「みーんみーん」。これまでの夏の思い出が集まった記憶のデータベース […] -
失われた屋号を求めて
第16回 小さきひとへ
自分が覚えている、一番古い記憶。中型くらいの白い犬が地面に倒れている。四肢を投げ出し、ピクリとも動く気配がない。私はそれを、母に抱かれた状態で見下ろしている。 犬の目は開かれているけれど、だからといって生きている […] -
失われた屋号を求めて
第15回 春服と換毛期
4月に自粛が呼びかけられ始めてから、自宅と職場をたまに往復する以外、友人知人に会う機会もなく過ごしていた。突然に訪れた、人生の延長戦のような自由な時間に幾分戸惑いながら、ここぞとばかりに本を読んでいた。そしてそのうち、 […] -
失われた屋号を求めて
第14回 我が家のお犬さま事情
たくさんの知らない人間と知らない犬に囲まれて、我が家の愛犬ムック(雄のトイプードル、13歳)は、かわいそうなほどブルブル震えていた。 私の帰省と月に一度のトリミングの予定がたまたま重なったこの日、ムックに付き添って […] -
失われた屋号を求めて
第13回 生意気で薄情で無敵で幸福
SNSのタイムライン上に「カミュの『ペスト』(新潮文庫)ひとり1冊まで」という文言が流れてきて思わずスクロールの手を止めた。 見ると都内の大型書店のようだった。トイレットペーパーじゃあるまいし、と興味を失いかけてふと […] -
失われた屋号を求めて
第12回 窓から入っていいよ
田舎の民家は鍵をかけない。少なくとも私の育った地域はそうだった。不用心と言われればその通りだけれど、泥棒に入られたという話は聞いたことがなくて、その代わり、毎日のように野良猫に入られていた。 両手を使って器用に引き戸 […] -
失われた屋号を求めて
第11回 私のなつかしい石っころ
雨が降ると、その雨音にどこまでも閉じ込められてしまいそうな家で育った。昔ながらの平屋建てで屋根の面積が広く、家中どこにいても頭上で小さく爆ぜる雨音に追いかけられた。 庭いじりが趣味だった祖父は、木と同じように石にも愛 […] -
失われた屋号を求めて
第10回 それも「読書」です。
多くの人が仕事を納め終えた昨年末のある日、本を通じて知り合った友人3人と私の計4人で吉祥寺駅に集まった。目的は、誰からともなく言い出した「本の買い納め」。買い納めを宣言したところで、書店で本を買うだけなら日常と変わらな […] -
失われた屋号を求めて
第9回 古くてあたらしい仕事
床にペタンとお尻をついて、自分の背丈より高い本棚いっぱいにつまったたくさんの絵本を前に目を輝かせている。「なんでも好きなものを1冊選んでおいで」と、隣りの部屋から両親の声がする。小さい頃を思い出すとき、いつでもいっとう […] -
失われた屋号を求めて
第8回 旅の道づれ
空港の土産品売り場の一角に、ひっそりと本が売られていた。新刊話題書や旅行書が並べられた棚の奥にさらにひっそりと、文庫本コーナーがあった。平台から天井まで伸びる棚が2本。著者の名前順にいろんな出版社が乱れて並ぶ色鮮やかな […] -
失われた屋号を求めて
第7回 コンプレックスに本
勉強やスポーツができなくて悔しい思いをする、という経験をあまりしないまま10代を過ごした。と言うとまるで自慢のようだけどそうではなくて、いまなお根深く私の性格や言動に影響を及ぼし続けるコンプレックスの話である。 何事 […] -
失われた屋号を求めて
第6回 光をあてる
小説を、書こうとしたことがある。まずは登場人物を考えようとノートを広げ、いくつかアイデアを練った段階でぴたりとペンが止まった。紙の上とはいえ、過去も未来もあるひとりの人間を現出させるには、もう一度初めから人生をやり直す […] -
失われた屋号を求めて
第5回 CONTINUE?▸YES NO
サァ、ボウケンガハジマリマス。ナマエハナニニシマスカ。 主人公の名前はヒカリ。「ポケットゲーム」と呼ばれるゲーム機(昔のゲームボーイみたいな)をいつも持ち歩いている。そしてタケムラとイシとイクコ。4人はともに中学生で […] -
失われた屋号を求めて
第4回 書肆玻璃と光
暖かい空気が動いた気配で目を開けると、すぐそばに友人の顔があった。「あ、ごめん。寝顔見てたらチューしたくなっちゃった」。えーなにそれーと笑い返したいけれど眠すぎて声が出せない。中途半端な笑みを残したまま、また眠りに落ち […] -
失われた屋号を求めて
第3回 コスモス書店
「心配するといけないから秘密にしてって頼まれたのだけど」 長期休暇を利用して帰省した私に、母がこそっと耳打ちしてきた。お父さん、救急車で運ばれて入院したんだよ、1週間も。それでね、お酒も煙草もダメだって言われたのに全然 […] -
失われた屋号を求めて
第2回 羊水と星
秘密基地は狭ければ狭いほどいい、とは子ども時分のわたしの格言である。 近所の子たちがススキ畑を踏みしめて作り上げた巨大秘密基地の隅っこに、ひとりしゃがむのがやっとの空間を勝手に作って楽しんでいるような子どもだった。 […]