第32回 夏の思い出

夏休みに入った。スーツケースで来店の方も増えてくる。夏の体験って、なんだか特別。大きな期待ではじまって、終わる頃にはなにかを置いていくような寂しさを感じる季節。私にも、夏の忘れられない思い出がある。

子どもの頃、犬が大好きだったけれどマンションで飼うことができなかったので、犬の出てくるお話や図鑑をよく読んだ。なかでも『がんばれ!盲導犬サーブ』(講談社、手島悠介著)には本当に夢中だった。今は、ラブラドールが主流だけれど、最初はシェパードだったこと。日本に盲導犬が普及するまでの人々の苦労。盲導犬になる子犬を一般家庭で期限付きでお世話するパピーウォーカーの存在(これにものすごく憧れた!)。それから、サーブがご主人をかばい、交通事故に遭って3本足になったこと。なんて、すごいんだろう! サーブは私のなかで英雄だった。

自分の飼い犬のようにサーブの話をしていたからだろうか。小学校3年生の時、父が山口に帰省する際、サーブのいる名古屋で途中下車してくれた。といっても、何にも調べていない父……。名古屋駅で中部盲導犬協会を尋ねると、駅員さんは「ああ、3本足のね」と親切に教えてくれた。わたしのサーちゃん(勝手にそう呼んでいた)は名古屋で有名なんだと、誇らしかった。

焦がれて焦がれて、名古屋まで。協会に入ると、まずは、人懐っこいラブラドールが盛大にお出迎え。そのあと、係の人が、「サーブ!」と呼ぶと、奥から3本足だけど力強く走ってくるサーブの姿が! 本物だ! 本を読みながら何度も思い描いた毛の手触りも、優しく湿った鼻づらも。係の人が引くぐらいしつこい私に、サーブは嫌な顔ひとつせず付き合ってくれた。

本を読んで想像して想像して、やっと会えたサーブ。その後も、サーブの盲導犬の普及に努める姿をいつも追いかけていたけど、6年生の6月の朝。サーブの死を知ったのは、新聞だったか、中部盲導犬協会からのお知らせだったかよく覚えていない。ただものすごく動揺して、泣きながら学校に向かったのだ。

数年前、初めて名古屋の栄に立つサーブの銅像に会いに行った。やっぱり、涙が出た。私の何十年かを支えてくれた存在なのだとあらためて思った。「本のなかには空想の物語だけじゃなくて本当のことがある!」と教えてくれたサーブ。今でも目の裏に、ギンガムチェックのワンピースを着てサーブに手をのばす私がくっきり浮かぶ。おとなしくなでられていたサーブの、ちょっと固い、でもあたたかい毛並みが忘れられない。私の夏の大切な思い出。

(本紙「新文化」2024年8月1日号掲載)

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