2010年代末以降、韓国ウェブトゥーンは「分業体制のスタジオ制作」という新しい手法で漫画を制作していると、日本では報じられた。だがスタジオ制作漫画は、必ずしも「新しい」わけではないし、「ウェブトゥーンではスタジオ制作が主流」というのも誤解である(各種プラットフォーム上では、個人作家の連載作品の方が多い)。
韓国では、漫画房やスポーツ新聞からの依頼が人気作家に集中した80年代、数十人規模のスタッフが、分業・徒弟方式で大量に漫画を制作する体制がすでに構築されていた(それらは揶揄的に「工場漫画(家)」と呼ばれた)。
ごく少数の貸本漫画の超人気「A級作家」は、月に15~20巻もの単行本を生産。さらにスポーツ新聞の連載や書店向け単行本漫画、雑誌掲載漫画などを含めると、月20~25巻の分量を制作していた。
ハイペースで刊行されるこれらの漫画は「毎日漫画」と呼ばれ、作家は漫画家というより経営者で、「財閥漫画家」などと評された。
最も多作だった作家のひとりであるパク・ボンソンは、1981~91年に、1冊100頁前後の貸本向け単行本を約1500巻刊行したと見られている。
こうした「工場漫画」は、先行した日本の漫画プロダクションシステムを参考にして、独自の発展を遂げたものだった。
「サンデー毎日」1970年2月3日号は、石森章太郎の石森プロを、手塚治虫の虫プロと並ぶ「大量生産工場」として取り上げた。アシスタントを雇い、プロットや人物・背景の作画などの分業によって月産550頁を制作。その記事で石森は「青年実業家のよう」だと紹介されている。
1960年設立のさいとう・たかをプロダクションに始まり、藤子不二雄、赤塚不二夫、白土三平、水木しげる、横山光輝らが、増え続ける執筆依頼やテレビ・映画の企画参画依頼などに応えるべくプロダクション制を採用した。そして、自社著作物の二次利用などの版権ビジネスを手がけるプロデューサーが登場する。
このような「人気作家=毎月何百頁も執筆する漫画家」というイメージ、および大規模なプロダクション体制は、70年代以降、コダマダイヤモンドコミックス(1966年創刊、コダマプレス)に始まる新書判コミックス市場が拡大すると、下火になっていったと思われる。
日本マンガが「雑誌中心」から「雑誌+コミックス」へと変わり、後者の比重が大きくなるにつれて、日本での「人気作家」のイメージは、「コミックスを何百万部も売る作家」へと変化した。多くの漫画家は一~二作の連載に集中し、そのクオリティを高めるスタイルが主流になった。
そうした変化から30~40年が経ち、日本で石森プロなどの記憶が忘れ去られた結果、韓国ウェブトゥーンのスタジオ制作は、「日本にはないもの」「新しいもの」と誤解されるに至ったのである。
一方韓国では、貸本漫画は全国の漫画房・貸本所に1巻ずつ配本された後、原則それ以上は増刷されず、漫画家には1巻あたりの原稿料が支払われるのみ。つまり印税収益が存在しなかった。
原稿料が高く、出版社の高額の契約金や自ら版元化するなどで複数の収益源があったのは一部の人気作家のみ。多くの漫画家にとっては、収入や人気を対外的に示す最大の指標は「制作本数(月産ページ数)」だった--かつて日本のマンガ業界がそうであったように。ビジネスモデルによって、人気作家の指標も変わるのだ。
(本紙「新文化」2024年3月7日号掲載)