40歳目前で、なぜだかわからないのだけれど、むくむくと「なにかを習いたい」という欲が湧いてきた。元々飽き性で、子どもの頃から、ピアノ、水泳、お習字など色々やったけれど、ものになったものは一つもない。出版社主催の勉強会にいっても足をブラブラさせて、なにかほかにおもしろいことがないか探しているような人間だ。
落ち着きも学ぶ気もない私が、なんでもよいからやらなくっちゃと焦燥感に駆られ、どうしようもない自分の欲望を満足させるために始めたのが、ホットヨガだ。家の近くにあることと、運動神経は関係ないというのが最大の決め手。コロナ禍に一時中断したけれど、動機がなく、なんでもよかったわりには、いまだに続いている。
子どもの頃から顔が濡れるのが嫌いで、学校のプールも極力入らなかったし(高校は学校にプールがないところを選んだ)、汗をかかないように過ごしてきた。それなのにこの何年間かは週2で滝汗だ。ポーズの最中に自分の汗が鼻に入って、プールで嫌だったあの「鼻ツン」になることもある。でもやめない。暴飲暴食がすぎると野菜が食べたくなるように、溜まりに溜まった老廃物を出せと体が言っているのか。
大好きなポーズは、山のポーズ(ターダーサナ)。かっこいい名前だけど、見た目はただ、真っすぐ立っているだけ。ヨガの最中はよく、「今、自分の頭のなかにある色々を手放して」と言われるのだけれど、これがなかなか難しい。でも体を動かすうちに少しずつ無心になっていく。自分の感覚がどんどん研ぎ澄まされていき、山のポーズにたどり着く頃には、足の裏から根が張り、まるで自分が地球と一体化したような感覚に陥る。体だけでなく心も解き放たれて、本当に整うのだ。
山のポーズをしているときの感覚が『よあけ』(福音館書店、ユリー・シュルヴィッツ作・画/瀬田貞二訳)のなかにある。この絵本を開くとき、なぜか一息新鮮な空気を吸い込み、居住まいを正してしまう。ゆっくりと、耳をすます。空気を感じる。全身の毛穴という毛穴が開いて、この上なく崇高なもので体が満たされる。至福のとき。そこに余計なものは一切ないのだ。
自分の背骨がどこにあり、どんな風に地面に立っているかわかるだけで、呼吸がしやすくなる。正しい判断ができる気がしてくるから不思議。何気なくはじめたヨガだけど、正常な心と体を取り戻す作業の大切さを痛感している。
新しい年、まっさらな自分で迎えよう。いろいろ手放して、正しいものをつかまえられる一年にしたいなあ。
(本紙「新文化」2024年1月11日号掲載)