日本では大人向けマンガ(風刺やナンセンスマンガなど)でも児童マンガでもないものとして、戦後に「劇画」が登場し「青年マンガ」が成立した。「劇画」という言葉が貸本マンガ史に登場するのは1957年、雑誌「影」の中で漫画家の辰巳ヨシヒロが使ったのが最初である。
辰巳らは「俗悪」「暴力的」だとして主婦層や教師などから批判されていた貸本マンガが、決して子ども向けではないということを示す新語として、「劇画」を選んだといわれる。そして1966年創刊の芳文社「コミックmagazine」を皮切りに、貸本マンガ家を多数起用した、青年マンガ雑誌が続々登場していった。
イム・ヘジョンの研究によれば、韓国で最初に「劇画」という言葉が用いられたのは1974年、高羽榮(コ・ウヨン)「林巨正(イム・コクチョン)」の単行本化に際し、タイトルに付された時と推定される。「林巨正」は、大人向け長編マンガのスポーツ新聞連載という形式を打ち立てた、記念碑的作品だ。
1969年、韓国初の総合娯楽日刊スポーツ紙「日刊(イルガン)スポーツ」が創刊された。同紙は70年に日本の「報知新聞」と取材・通信業務提携を結んだ。
報知新聞は69年に、初の新聞連載劇画「モーレツ!巨人」(梶原一騎原作、石井いさみ作画)を連載、第2弾として71年に、小池一夫原作、小島剛夕画「忘八武士道」が始まる。そして72年に「林巨正」が、韓国「日刊スポーツ」で連載開始となった(日韓の直接的な影響関係は不明)。
しかし日本では、新聞劇画は根付かなかった。一方韓国では、日刊紙に25コマを超える劇画として連載された「林巨正」が、それまで2万部程度だった新聞の販売部数を4年間で30万部にまで押し上げた。その後各紙に5~10作もの、硬軟織り交ぜた漫画が連載されるようになった。キャラクター中心の長編連載ストーリー漫画は、韓国では新聞で花開いたのだ。
林巨正は、16世紀に実在した義賊の名前である。林巨正の物語を、歴史史料と口伝の説話を用いて小説化した洪命熹(ホン・ミョンヒ)は、光復(日本の敗戦)後、越北して北韓(北朝鮮)で副首相などの要職を歴任した。そのため、小説「林巨正」は、韓国で長い間禁書だった。だが、同作を原作・参考にした漫画化は何度も行われた。
韓国近現代文学の研究者、申明直(シン・ミョンジク)は、70年代に開拓された「林巨正」や「水滸伝」「客主」などの大人向け歴史漫画は、民主化運動が本格化する前の軍事独裁政権への抵抗であり、人々の不満を英雄に托して描いたものだと指摘した。
当時、政権批判漫画は新聞4コマを除けば検閲もあってほぼ描けなかった。しかも新聞4コマであっても「コバウおじさん」の金星煥(キム・ソンファン)が当局に拘束されるといった事態が起きている。それゆえ長編劇画は、舞台を現代でなく歴史に求めたのだ。
90年代末以降になると、新聞社のウェブサイト上に金振泰(キム・ジンテ)「市民怪傑」をはじめ、初期のウェブトゥーンに直接影響を与えた作品も掲載され始めた。そしてそれを追うように、「マスメディアを代替する存在」を自認するダウムやNAVERらのポータルサイトも、漫画サービスを手がけるようになる。
その根幹には、70年代に定着した「新聞に漫画はつきもの」という感覚が根強くあったのである。
(本紙「新文化」2023年12月21日号掲載)