第3回 韓国〝貸本漫画〟の台頭と推移

日本では敗戦後の1953年に、児童雑誌が大型化、視覚化してマンガのページが増え、雑誌がマンガの中心となっていく。そのころまでは、「赤本」と呼ばれる単行本マンガや貸本マンガも人気があったが、50年代末から週刊マンガ誌が台頭し、赤本、貸本は衰退していった。

 韓国ではどうか。1950年から3年に及んだ韓国戦争(朝鮮戦争)によって、韓半島(朝鮮半島)では当時約3000万の人口のうち、100万人以上が死傷、数百万人規模の避難民が生まれた。そして韓国は、世界最貧国のひとつとなった。

 それでも戦争中も、避難地域の釜山を中心に創刊された雑誌に漫画が掲載されていた。反共プロパガンダ漫画が粗悪な紙に印刷・出版されたり、山川惣治の大人気絵物語『少年ケニヤ』を模写して描き直した『密林の王者』が人気を呼び、類似の書籍が複数刊行された(もっとも『少年ケニヤ』自体も、ターザン映画の筋書きや米国の雑誌の写真からの借用が見られる。日本の赤本漫画でも人気映画の無断コミカライズが横行し、50年代の日本は韓国を非難できる立場にはなかった)。

 なお韓国で著作権法が施行されたのは1959年、外国の著作物も保護対象になったのは87年である。

 『密林の王者』をいち早く出版した業者のひとり、キム・ソンオクは、56年に韓国初の児童向け月刊漫画専門誌「漫画世界」を創刊。50年代後半に、「少年少女万歳」とともに児童漫画雑誌の全盛期を導いた。

 韓国戦争後、書店流通の書籍・雑誌では、それまで仕入れは現金先払いのみだったのが掛け売り(委託販売)が登場し、飛躍的に発行部数を伸ばす。しかしマージン率を巡って書店と出版社間の対立が発生、店頭での割引販売も横行する。あげく販売代金回収が困難になり、「総販」と呼ばれる出版卸売業者の倒産や雑誌の廃刊が相次いだ(韓国で出版物の定価販売が、業界内協約として成立したのは1977年。だがこれも90年代に崩れた)。

 一方で、貸本漫画専門の営業・流通網が構築されると、店舗型貸本屋「漫画房(マンファバン)」ができ、1958、59年には全国約1000~2000店規模に広がった。最盛期の70年代中盤には、全国約2万店に達したと推定されている。

 漫画房はもともと店外貸出はせず、店内で読ませる業態だった。これとは別に、小説の貸出を行う「貸本所」も存在した。だが60年代以降になると、貸出を行う漫画房、漫画も扱う貸本所も現れ、漫画房を貸本所と呼ぶケースも増えた。

 貸本漫画では、ごく少数の漫画出版社が制作を独占し、漫画房の店舗数に合わせて刷り部数を決め、取引には現金払いを徹底したため、雑誌ビジネスと比べて経営は相対的に安定していた。

 こうして子ども向けでは、日本はマンガ雑誌中心、韓国では貸本単行本が中心と、道が分かれる。

 米澤嘉博(マンガ評論家)らが指摘するように、日本では週刊マンガの登場によって、いつ終わるとも知れぬ連載を毎話牽引する「キャラクター中心マンガ」が台頭した。一方、70年代までの韓国貸本漫画では、長くても数巻で終わる描き下ろし単行本に適した、テーマ中心のマンガが主流だった。

 やがて80年代になると、貸本にも超長編作品が登場するのだが、その話はまた後の回に。

(本紙「新文化」2023年11月23日号掲載)

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