第90回 元は書店があったところで

 子どもの頃に住んでいたマンションを訪れたらコインパーキングになっていた、と知人が笑いながら話していた。よくある話だと私も笑って聞き流したが、後になって、それはどんな気持ちだろうと想像すると止まらない。全然笑える話なんかではないような気がしてくるのだ。
 毎日暮らしていた部屋に別の誰かが住んでいるのと、部屋自体が消滅してしまうのとでは、どちらが笑えないだろうか。そんなことをぼんやり考えていたら、ふと毎日のように通っていた駅に降りてしまい、慣れた階段を上っていた。
 閉店日が決まり、それから完全撤退まで通い続けたかつての職場は今、どうなっているのだろうか。建物は健在だった。店内の案内図によると、店があった場所には、どうやら別の店子が入って、何事もなかったかのように営業しているらしい。しかし今の私には、エスカレーターを上って、現場を目の当たりにする気には到底なれなかった。
 その夜、たまたま読んだ小説に《元は書店があったところで》と、オープンしたての100円ショップについての描写があった。本筋とは関係がない。しかし作家がどんな気持ちでその一文を書いたのかを想像すると、止まらない。今夜はなかなか眠れなさそうだ。

(新井見枝香/HMV&BOOKS SHIBUYA)

(本紙「新文化」2023年2月2日号掲載)