口内で分泌された唾液は、適宜飲み込んでいるはずだが、口の外に垂れることもある。それを私は受け止めたい、この細長いプラスチックの容器で。しかし垂らそうと思えば思うほど唾液は出ない。
コロナ感染者が増えているため、PCR検査センターに足を運んだ。検体として一定量の唾液を採取しなければならないのだが、これが一向に溜まらない。専用のブースには梅干しの写真が掲示されていたが、それをじっと見つめてもダメだ。はちみつで漬けた、甘い梅ばかり食べているからかもしれない。
私より後にブースに入った人が、次々とセンターを出て行く。焦ればさらに口が乾いて、舌が口蓋に張り付くほどだ。こんなことなら、あの文庫本を持ってくればよかった。
小説『縁結びカツサンド』(冬森灯・ポプラ文庫)は、商店街に古くからあるパン屋が舞台。耳を落とした食パンにキャベツを載せ、揚げたてのトンカツを挟んで特製のソースをかけたカツサンドが飛ぶように売れるシーンでは、感動の涙より、空腹の涎でページを濡らしたものだ。
描写の記憶を呼び起こし、どうにか唾液を規定量まで集めて、検査場を後にした。パン屋に駆け込んだことは、言うまでもない。
(新井見枝香/HMV&BOOKS SHIBUYA)
(本紙「新文化」2022年9月1日号掲載)