第74回 自分のお店

 新宿の喫茶店「らんぶる」で元同僚を待っている。日比谷コテージの閉店以降、顔を合わせていないが、きっと絵を描いたり服を作ったり、彼女らしく過ごしているのだろう。
 隣のボックス席から聞こえてくる会話に耳を傾ける。どうやら初顔合わせのふたりは、イラストレーターと依頼主のようだ。生まれ故郷に自分の店を開くのが夢だったと語る彼女が、インスタで見つけたイラストレーターに直接連絡を取って、看板のデザインを依頼したらしい。スタンプを作って模造紙に押すことも考えているようだ。
 「青いカバ」という本屋のレジで、無地のカバーをかけた後、ぺたんと押してくれたカバの青いスタンプを思い出す。彼女はどんな色の本屋を作るのだろう。いや、本屋とは限らず、花屋かもしれない。どちらにせよ、これからやることは山積みだ。無事開店できても、うまくいくとは限らない。
 少し遅れてやって来た元同僚は、相変わらず不思議な服を着こなし、また本屋やりたいなあと漏らしつつも、昔からずっとやってみたかったことがあってね、とお隣の誰かみたいな弾む声で語った。
 失敗や無駄を想像してばかりいては、何もできやしない。そもそも私は、まだ何も失敗していないのだ。

(新井見枝香/HMV&BOOKS SHIBUYA)

(本紙「新文化」2022年6月2日号掲載)