「コロナで学校が休校になって、小学生の女の子と小説家の叔父さんがサッカーをしながら旅に出るお話なんて良さそうですよね。タイトル忘れちゃったけど」
開店前の職場で、同僚にとあるフェアの内容を相談していると、ちょうどいい本があると、教えてくれた。しかし肝心のタイトルが思い出せない。
それが『旅する練習』(乗代雄介・講談社)のことだと気付いたのは、退勤した後だった。
見えた風景、聞こえた音、感じた気持ち、もはやどれも私のものだった。おそらく同僚は、芥川賞受賞後のニュースか何かで、あらすじを覚えたのだろう。
数日後、ドライブがてら熱海まで足を伸ばし、砂浜に降りた。それは嘘みたいに暖かい日で、子どもが父親らしき大人とサッカーをしている。確か小説では、利根川沿いを歩き、鹿島へと向かっていたが、この海岸を進むなら、ゴールは清水だろうか。連れは私が立ち止まったことに気付かず、波打ち際を歩いて行く。小説を読まなかったら湧かない感情が、こうして時折、私を支配する。
(新井見枝香/HMV&BOOKS HIBIYA COTTAGE)
(本紙「新文化」2021年2月18日号掲載)