第42回 個人的なものとしての死

 猫を家族として新しく迎え入れたばかりの友人が、「この子を最期まで看取れるか不安だ」とぼそっと言った。猫の寿命を最大限に長く仮定しても、この子が亡くなる時、私たちは日本の女性の平均寿命にも達していないはずだった。すぐに、そういう話ではないのだと気づく。彼女の言葉に心当たりがあった。
 人生はよく道にたとえられるけれど、私ももれなく、そして何の前触れもなく、あぁ私は今、スタートよりゴールの方が近い場所にいるんだなと感じたばかりだったのだ。
 もちろん人生は何が起こるか分からないし、私が感じた瞬間がたまたまその時だったというだけの話で、早いとか遅いとか他人のジャッジは求めていないけれど、友人も私もなにか大きな角のようなものを曲がったなという実感があった。
 これからはきっと、より死が身近なものになっていくんだろうという私の予想はしかし大きく外れて、ものすごく個人的なことだと思っていた自分の死が実は「命あるものいつか死ぬ」のサイクルの一部に過ぎなかったんだという落胆と諦観に変わっていった。ゴールが近いのは自分の年齢から考えてもそう間違ってはいないはずなのに、結局曖昧なところに着地してしまったようで落ち着かない。一瞬、掴みかけたように思えたのに、指先から抜けてどこかへ行ってしまった。
 そんな時に偶然手にしたのが『歌に私は泣くだらう 妻・河野裕子 闘病の十年』(新潮文庫)だった。
 この本は、乳がんの発覚から手術、再発を経て亡くなるまでの十年を、夫であり、河野さんと同じく歌人である永田和宏さんが綴ったものだ。再発から死までの間、ふたりが何より優先したのが歌を一首でも多くこの世に遺すことだった。
 手をのべてあなたとあなたに触れたきに息が足りないこの世の息が
 これは河野さんが死の前日、最期に残した一首だ。壮絶でいて愛に溢れた一首にこちらの息まで浅くなっていくようだ。頭を明晰なまま保つため、モルヒネはギリギリまで使わず、症状が悪化してからは文字を書くのもままならなくなり、口述筆記で歌を書きつけていったという。
 呼吸が乱れ、その苦しみの中でも、最期に手をのべ触れたいと思うのが「あなた」というただひとりであること。歌によって目の前に広がった情景のその、あまりに「個人的」な思いから放たれる強さと美しさに、生も死も、個人的なものでしかありえないという思いが湧く。
 韓国語で「モクスム」とは、命という意味の単語だ。モクは喉、スムは息。この歌を詠む時、必ず思い出す。体がこの世界から解放されるその時、最後に吐き出される息は確かに命だろうと納得する。今日も私の体から命が吐き出されていく。

(ライター・書評家)

(2022年9月22日更新  / 本紙「新文化」2022年9月8日号掲載)