現実って一体何だろう。子どもの頃、自分と目の前の友だちが交換不可だと気付いた瞬間を思い出す。もしくは自分が「在る」とはどういうことかと悶々とひとり考えていた中学生の自分を。またはもっと美人に生まれていたらと自分の容姿と折り合いを付けられずにいた高校生の頃を。もちろん、今の自分が見ている景色のことも。
10代の頃、友人と繁華街を歩いていて、高額な化粧品を売りつけられそうになったことがある。
気が付いたらビルの一室にいて、目の前できれいなお姉さんが流行りのデザインで塗り固めた長い爪を振り回しながら、料金の説明をしていた。金額の高さに驚いてもう帰ろうと友人を促すも、真剣な眼差しでお姉さんを見つめていて気が付かない。
強気でしっかり者だと思っていた友人の意外な姿に一瞬呆気に取られる。この時、友人は年上の男性に片思いをしていて、妹としか見てもらえないと悩んでいた。目の前にいるきれいなお姉さんになりたい自分を重ねているのかもしれない、もしくは化粧品を使ってきれいになった自分を想像しているのかも。
救いを見出した視野には、フィルターがかかる。「信じたい」というフィルターを通すと現実はどう変わって見えるのか。どこまでも当人にしか分からないものだけれど、友人の瞳は輝いていた。
村田沙耶香さんの『信仰』(文藝春秋)は短編とエッセイがあわせて8編収録されている。表題作の「信仰」を読んで以来、こうしてつらつらと現実について思いを巡らせている。
現実主義で「原価いくら?」が口癖の永岡はある日、地元で再開した旧友からカルト商売の誘いを受ける。古代セラピーと称して天動説を惹句に、新宗教でひと儲けしようという魂胆だ。そこに教祖役を引き受けた同級生も加わって、話は進んでいく。
一見して「トンデモ」な教義に騙されてしまうのは一体どんな人間なのか。10万円という高額なセミナーに集まった参加者の、詳しい背景は描かれない。ただ、「信じたい」というフィルターが次第に色濃くなっていく参加者たちの、常軌を逸した行動だけが描写されていく。
フィルター越しに見る現実がどんな姿をしていようと、それがその人にとっての唯一の現実だ。フェードアウトして別の現実を生きることはできないし、現実味がないからと途中退席することも叶わない。ましてや、なりたい誰かの人生を代わりに生きることもできない。
私たちはみんな、たったひとつ、自分だけの現実を「信仰」している。それがどんなに馬鹿馬鹿しく見えても、外野の声はそう簡単には届かない。
たとえば心の底から救いたいと思える人に出会った時、または切実にその必要性が生じた時、私はどんな言葉を持つだろう。どう語り掛けるだろう。
届くと信じるのは傲慢か、それとも――。当分答えは出そうにない。
(ライター・書評家)
(2022年7月28日更新 / 本紙「新文化」2022年7月14日号掲載)