最近、休みの日に早起きをして、駅前のパン屋さんのモーニングを食べに行くことが日課になりつつある。開店と同時に入店して、注文するのはピザトーストのセット。サイドメニューにサラダとオレンジジュースを選んで、ピザトーストが焼きあがるのをカウンター席に座りながら待つ。
休日の朝の時間にイートインを利用するお客さんは結構多い。新聞を開いたり、本を読んだり、常連らしき人たちがひとりで静かに朝の時間を過ごしている中で、いつもちょっとだけにぎやかなグループがいる。お年を召した女性の集まりで、さっぱりした恰好にさっぱりした表情で、各々が選んだパンを食べている。
ある日、そのうちのひとりの女性がかかってきた電話を受けながら、いま、いつもの太極拳の帰りで、と話すのが聞こえて、彼女たちがまとう爽やかさの理由が早朝の太極拳にあると知って納得した。
その日、いつものようにピザトーストを食べながら外を見ていると、先の女性たちのひとりが、何やら声を荒げていた。いつもとは違うその口調が気になって耳を傾けると、仲間のひとりが連絡もせずに、急に休んだことが許せないらしかった。
困った顔で頷くしかない周りのメンバーをよそに、ここにいない仲間への文句をひとしきり吐き出したあと、その勢いのままに「でも何事もなくってよかったけど!」と、言い放った。まるでそれまでが長い長い計算式か何かで、最後の最後に与えられた命題が正しかったことをついに証明したみたいに、とても気持ちよく言い切ったものだから、それは本当にそう、と思わず口をついて出てしまった。
言い切って満足した人、終始困り顔で見ているしかなかった人、適度に相槌を挟んでいた人、聞いているのかいないのか表情からは分からなかった人。何事もなくてよかったという思いはきっと少なからず共有しているはずだけれど、改めて外から眺めていると、それに対する反応がひとりひとり違うことが不思議に思えてくる。
そういえば小学生の頃、どうして私は私のこの目で見ている風景しか見ることができないのか不思議だった。どうして目の前にいる友人が見ているものが見えないんだろう。私の中にいる「この私」は、どうして友人の中にいる「友人」と交換できないんだろう。普段は忘れているのに、一度思い出すと何やら胸のあたりがそわそわしてしてきて、考えるのをやめることができないあの感じ……。
こんな気持ちを思い出したのは、永井玲衣さんの『水中の哲学者たち』(晶文社)を読んだからだった。哲学対話として、日常の中にある哲学について自由に話し合う場を作っている著者のエッセイには、哲学とは何かを知らなくても、哲学的問いに「なんでだろう」と挑むたくさんの子どもたちが出てくる。このそわそわする気持ちを今も持てていることに、気づいた休日の朝。
(ライター・書評家)
(2021年12月23日更新 / 本紙「新文化」2021年12月2日号掲載)