鳴き始めた蝉の声にまだ耳が戸惑っている。絶えず聞こえている耳慣れないこの音が蝉の声だと認識するまで、ほんの少しのタイムラグが発生するのだ。「夏」「音」「みーんみーん」。これまでの夏の思い出が集まった記憶のデータベースにアクセスして検索しているあいだ、世界が一瞬だけ真空パックされたようになる。「あ、蝉か」と気づいた途端に忘れてしまうような、こんな一瞬を何度も繰り返しながら新しい季節に馴染んでいくのだろうか。
2週間ほど前に、階段から落ちて足首を捻挫した。雨上がりの濡れた階段を下りながら、持ち上げたスカートの裾を気にして下を向いた瞬間だった。あると思っていた地面がないと気づいたとき、階段二段分をきれいに落下しながら色んなことを考えた。緩慢になった時間の流れのなかで頭に浮かんできたたくさんのことを処理しながら、着地の妙次第ではこれもエッセイのネタになるかも知れないなと考えていた。
一瞬ではあるけれど確かに死ぬ!と思ったときのその切実さと、書いたら面白いかな?と咄嗟に考えた切実さはとても似ている。エッセイは怖い。多少の粉飾はあれど、自分の人生ひとつで勝負しなければいけない。魅力的なエッセイを書く人に出会うと、この人には敵わない……と自然とひれ伏してしまう。
数々の話題書のカバー絵も手がけているイラストレーターの三好愛さんの『ざらざらをさわる』(晶文社)は著者初のイラスト&エッセイ集だ。もこもことも違う、不思議で曖昧な輪郭を持つイキモノたちの、宇宙の始まりの種のような二つの小さな目。三好さんの描くその目を見るたびに、ここから世界を覗いてみたいと思っていた。
小学生の頃、駅の改札機が当然のように差し込まれる定期券に甘んじているように思えて一円玉を入れてみたこと(当然開かない)。小分けされ解凍を待つ冷凍ご飯たちに宇宙空間で眠りにつく宇宙飛行士を重ねつつ、食べきる前に新たなご飯を炊いてしまうこと(忘れ去られたご飯が数か月後に見つかる)。窓を閉めて逃げていった強盗が自分よりちゃんとした人間に思えること(窓を閉め忘れていた)。
日常に生まれる小さなささくれを、時々ちゃんと剥がして痛がることができる人。ざらざらを見つけてしまう繊細さと、舐めとけば治るよと傷を見せびらかす子どものような無邪気さが同居した不思議な文体は、著者の描く唯一無二のイキモノたちの息遣いそのものだった。
ひとつ読み終えるごとに添えられるイラストが、ざらざらに触れた余韻をさらに引き延ばしてくれる。特にお気に入りを選ぶなら、塾の休み時間用の小話を毎回準備していた回の一枚を挙げたい。世界からきっぱりと切り離された私をこう描くのか…と静かに興奮した。
記憶を慈しんで検分すること。私の指先もいつか私だけのざらざらに辿り着けるだろうか。
(ライター・書評家)
(2020年8月20日更新 / 本紙「新文化」2020年8月6日号掲載)