第16回 小さきひとへ

  自分が覚えている、一番古い記憶。中型くらいの白い犬が地面に倒れている。四肢を投げ出し、ピクリとも動く気配がない。私はそれを、母に抱かれた状態で見下ろしている。
  犬の目は開かれているけれど、だからといって生きているとも思えない。鼻を啜る音。優しく呼びかける声。母は泣いている。
  朝、目が覚めた時、瞼の裏にはまだ倒れた犬の毛の白さがちらついていた。いつか確かに聞いたはずのその犬の名前を、忘れてしまっていることに気づく。この夢を見た日の夜、弟夫婦にはじめての子どもが生まれた。
  予定日よりだいぶ早い知らせに戸惑いながら、今朝見た夢はこれだったのかと思った。小さきものの、死と生。私の一番古い記憶は死の記憶だけれど、そうと知らず何度も思い返していた情景は、悲しみではなく、抱かれた母の腕の温かさや安心感につながっている。
  小さいものを愛おしむ気持ち。無条件に守らなければいけない存在。そういう種類のことを、私はこの記憶から受け取ってきた。
  母から送られてきた動画には、新生児用のベッドに寝かされた姪と、「口をむにむにしているねぇ」と語尾を緩ませる弟の声が入っていた。今まで一度も聞いたことのないような優しい声。それを何度も再生する私もまた、きっと新しい表情を浮かべているのだろう。
  ウィリアム・サローヤンの『僕の名はアラム』(新潮文庫)の主人公・アラムは九歳の男の子だ。物語の舞台は一九〇〇年代初めの米・カルフォルニア。慎ましくも逞しい、彼の一族の生活を描いた連作短編集だ。
  この中の一篇、『ザクロの木』は、アラムのおじさんのひとりであるメリクが土地を購入するところから始まる。メリクの夢は、美しい果樹園を作ること。670エーカーもの広大な土地は、彼の楽園になるはずだった。
  地獄のように乾いた土地に植えられた700本ものザクロの木は、数年をかけてやっと実をつけたものの、ひとつも売れることなくすべて返品され、やがてその土地も手放すことになる。
  自分に農業の才能はない。薄々感じていながらも、それでも果樹園にこだわった理由。彼はただ、木を植えてそれが育つのを眺めていたかっただけだった。それがただ美しいからという理由だけで、ひと財産を賭け、朝から晩まで儚い夢を見続けることができる大人だった。
  理想の伯母像について考えていたら、ザクロの木の間に佇むメリクの姿が浮かんだ。目の前には夢に見た美しい果樹園が広がっている。たとえ十分な収穫が望めなくとも、それが美しさを損なう理由にはならない。
  私が姪に教えてあげられることがあるとしたら、こういうことだと思った。離れて暮らす無責任さでもって、世界の美しいところだけ見せてあげる。ハロー。世界へようこそ。

(ライター・書評家)

(2020年7月16日更新  / 本紙「新文化」2020年7月9日号掲載)