日本列島でも活動した韓半島出身の漫画家の嚆矢に、金龍煥(キム・ヨンファン)がいる。韓国で国民的人気を博したキャラクター「コチュブ」の生みの親であり、1940年代末に韓国初の漫画専門媒体を創刊した「韓国漫画の父」である。
油絵を学びに日本に留学したキム・ヨンファンは、1930年代から40年代にかけて「北宏二」名義で、内地の雑誌「日本少年」「少年倶楽部」などに挿絵や漫画を多数描き、戦後も「少年クラブ」「ぼくら」「週刊少年マガジン」に寄稿した(ただし60年代以降は日本でも「金龍煥」名義)。「北宏二」が日本で著名だったとまでは言えないだろうが、玄界灘を越えて韓日で活動した先駆である。
戦後日本で、韓国漫画が単行本で翻訳出版された最初の事例は、拓殖書房から1975年に刊行された金星煥(キム・ソンファン)『コバウおじさん』だろう。50年に新聞連載を開始した風刺漫画だが、「軍事独裁への抵抗」という文脈で紹介された。
韓国では、1980年代は刊行点数的にも内容的にも漫画が充実した時代だったが、日本ではそれらは、80年代後半まではわずかに紹介されたに留まる。たとえば房学基(パン・ハッキ)の『劇画韓国名作短篇小説選』上下(南雲堂、1984年)、李朝の歴史上の逸話を描いた『劇画 韓国デカメロン』(河出書房新社、85年)、そして義賊・林巨正(イム・コクチョン)の物語が『李朝水滸伝』というタイトルで、85年に全9巻でJICC出版局から刊行された。
人気作家・李賢世(イ・ヒョンセ)の作品では、日本が植民地化していた時代の韓半島を舞台にした社会派の『弓』が1986年に晶文社から、『純姫(スニ)』が90年に三修社から翻訳出版されたが、大ヒット作『恐怖の外人球団』など、娯楽色の強い作品は紹介されていない。
また、当時民主化闘争をしていた大学生が支持した雑誌「漫画広場」連載の朴興用(パク・フンヨン)『白紙(ペクチ)』(亜紀書房、87年)が翻訳され、日本が「政治の季節」にあった60年代後半の「COM」「ガロ」の実験的・内面的なマンガと重ね合わせて論じられた。
パク・フンヨンが大友克洋を愛好していたように、韓国の作家は日本の同時代作品を読んでいた。一方で日本の出版界は、同時代の「娯楽としての韓国漫画」には目を向けていなかった。1988年のソウルオリンピック開催を前に、「韓国の文化・歴史・政治を理解するためのもの」として受容するか、あるいはマンガ評論家がソウルの東大門市場にある漫画問屋や古本屋に出向いて、「日本マンガの海賊版や模造品を売っている」と嘆く程度の見方に留まっている。
流通上の課題もあった。日本マンガは雑誌中心の市場を形成し、コミックス単行本も多くは「雑誌取扱書籍」として流通していた。だが、この時期までに翻訳された韓国漫画は「書籍」として、書店では外国の社会や文化、歴史を扱う本の棚に並んだと思われる。マンガ雑誌に掲載されず、マンガ出版社から刊行されず、書店のマンガ棚にも並ばない韓国漫画を発見する日本の読者は、きわめて限られていた。
80年代後半まで、韓国漫画は作品内容的にも流通的にも、日本のマンガ市場に適したかたちで翻訳・紹介されなかった。(通名を使用する在日韓国人を除けば)日本のマンガ雑誌への韓国人作家の連載は、1988年以降になる。
(本紙「新文化」2024年10月3日号掲載)