日本でマンガの起源を鳥獣戯画や北斎漫画に求める向きがあるように、韓国でも漫画(マンファ)の起源を高句麗壁画などに見る論者もいる。 だがマンガ研究の世界では、日本の近代マンガの黎明期は1870年代だといわれている。1862年にロンドンの新聞の挿絵記者として来日したチャールズ・ワーグマンが、横浜居留地で外国人向けに漫画雑誌「The Japan Punch」を創刊。日本人がそれを真似て「我楽多珍報」「団団珍聞」といった、時局諷刺漫画(このときは1コマのカートゥーン)雑誌を創刊した頃である。
また、職業漫画家第1号は、1905年に時事漫画誌「東京パック」「時事漫画」を創刊し、印税方式での契約だったため、総理大臣並みの収入を得たという北澤楽天だとされる。
韓国では、1909年に創刊された愛国的な新聞「大韓民報」掲載の、イ・ドヨンの風刺漫画「挿画」(これもカートゥーン)が近代漫画の始まりというのが通説だ。この作家は、欧米の猿真似をする知識人や売国的な内閣を批判する絵を描いた。
「大韓民報」を創刊したオ・セチャンは、開化派(朝鮮王朝下で独立と近代化を進めようとした改革派)運動に関わり、1902年に日本に亡命。北澤の「時事漫画」を知って、帰国後に風刺漫画の制作を試みた。
しかし1910年の日韓併合によって韓国の新聞は軒並み廃刊となり、韓国漫画はさっそく苦難の時代を迎える。
1919年に三・一節(三・一独立運動)が起こって言論・出版の規制が緩和され、新聞「朝鮮日報」「東亜日報」や雑誌が創刊されるが、20年代以降も朝鮮総督府の検閲下に置かれた。
結果、諷刺は廃れ、コミカルな生活漫画や子ども向け漫画が中心となる(当局の介入を背景としたマンガの風刺から生活へのシフトは、日本においても、15年戦争の戦局悪化につれて同様に起きた)。 この韓国漫画の「起源」の策定から、二つのことがわかる。
一つ目は、韓国近代漫画はその始まりから権力や規制との闘いの歴史という側面をもち、作品をいかに流通させるかに対して、意識的にならざるを得なかったことだ。
日韓併合後は日本によって、日本からの解放後(1945年以降)は軍事政権によって、出版物の事前検閲が行われ、漫画もその設定や展開、絵にいたるまで干渉され規制された。
こうしたことは1987年に韓国が民主化されるまで続き、民主化以降も、97年に「青少年保護法」という名の表現規制法案が漫画に適用されるなど、表現への抑圧は長く続いた。
二つ目は、海外のマンガの影響・緊張関係の中で育まれてきたことだ。
「海外」とは日本だけではない。たとえば20世紀アメリカを代表する、ジョージ・マクマナスの家庭マンガ『親爺教育』は、日本でも戦前の人気作品、麻生豊『ノンキナトウサン』(1924年~)などに影響を与えたが、それとほぼ同時期に「朝鮮日報」に掲載されたノ・スヒョン『モントングリ(でくの坊)バカを見る』も、『親爺~』の影響を受けたギャグマンガだ。同作は1926年、韓国初の漫画原作の実写映画となるほどの人気を得た。
日本もそうだが、韓国の大衆文化を考える上では、アメリカや欧州の文化および政治経済上の関係も無視できないのである。
(本紙「新文化」2023年10月26日号掲載)