第29回 リミッターを外す

 ホームに降り立つとすぐ、むっと暑い空気がまとわりついてきた。改札階へと続く階段を一段、一段のぼっていく。すぐ目の前に知らない人の背中があって、無意識に距離を取る。人との距離に敏感になった。
 駅を出て、今日はどのルートで帰ろうかと逡巡する。首をめぐらして、いちばん暗い道を選ぶ。この道は人通りが少ない。いつからか、人のいない方を選ぶ習慣がついてしまった。
 スマートフォンにぐるぐるに巻きつけたイヤフォンを歩きながらほどいて、耳に装着する。蝉の声も、電車の音も少しだけ遠くなった分、目の前に続く道の明度が上がったような気がする。家に着くまでの10分弱の道のりを、並走してくれる曲。プレイリストをスクロールして選ぶとすぐに、甘くのびやかなボーカルが始まる。
 誰もいない道を歩いていると、思わず鼻歌がついて出る。イヤフォンをしている耳に、自分の声はなかなか届かない。もう少し大きくても平気かな、もう少しだけ、と控え目に、だけど確実に音量を上げていく。まだ、誰ともすれ違っていない。
 帰り道に、こうしてゆっくり歌を歌いながら歩くことは以前はそうあることではなかった。友人と楽しい夕食を囲んだ日の帰り道、高揚したままの気持ちを持て余した時にふいについて出る鼻歌とも違くて、自らにかかっている小さなリミッターを、少しずつ外していくような、そんな帰り道。あまりにもたくさんのことが禁止されてしまって、できるか、できないのか、判断するより先にもう諦めることの多い毎日に飽きてしまった。
 歌を口ずさみながら歩いている、ただそれだけなのに、制約の多い日常から少しの間だけ脱出できたような気がしてくる。周囲に人がいないことを確認して、マスクをずらして歩く。たったこれだけのことが取り戻せずに、1年半が過ぎてしまったんだなと思う。
 オリンピックが始まる直前、「選手たちに罪はありません」という言葉をやたらと聞いた。普段ほとんどテレビをつける習慣のない私ですら数回耳にしたほどだから、テレビを日常的に見ている人は一体どれほどだったんだろうと思う。選手に罪はあるのか、ないのか。その問い自体に興味はない。それは個々人が今後、自分は一体何に加担したのか、あるいはしていないのか、長い時間をかけて顧みていくことだと個人的には思う。
 最近は落ち着いて本を読む時間がなかなか取れずに、もっぱら好きなアーティストの歌の歌詞の読み解きばかりしている。どこまでいっても興味があるのは言葉なんだな、とノートに歌詞を書き写す自分に苦笑いが漏れてしまうけれど、日常を救ってくれるのは、読み解く必要のない、真っすぐに遠くまで届くこんな歌詞。
 「僕たちが踊るのに許可はいらない」
 今日も自分だけのプレイリストが待っている。

(ライター・書評家)

(2021年8月26日更新  / 本紙「新文化」2021年8月5日号掲載)