去年の6月に姪が生まれた。すぐにでも会いに岩手県の実家に帰省したかったけれど、増え続ける東京の感染者数は持病を持つ両親に不安を与えると思い、様子を見ることにした。その時は、お盆は無理でも年末年始には安心安全に帰省できるだろうと踏んでいたけれど、結局、姪と初対面を果たすまで約1年かかった。
ほやほやの生まれたての姿も、寝返りもハイハイもつかまり立ちができるようになった日も、生まれてから1歳までの瞬間のすべてを見ることができなかった。日頃からどれほど気をつけて生活していようと、少しでも自分が家族に感染させてしまう可能性がある限り、軽率な行動は取れない。その間にも政府主導のもとGoToキャンペーンが施行され、地元の観光地に他県からの観光客が大勢押しかけている様子をニュースサイトで見て複雑な気持ちになった。
お得な制度を利用して観光を楽しむ人に罪はない。それでも、そこに大切な人がいる人はそれゆえに帰れずにいる状況で、無邪気に観光を楽しむ人を見るのは愉快なものではなかった。
私は、そして私たちは、一体なんのために我慢してきたのだろう。少なくともそれはオリンピックのためではなかったはずなのに。
私について言えば、何の不安もなく早く帰省できるようになって欲しかった。姪の成長を見たいのはもちろんだけれど、実家には老犬がいて、元気なうちに少しでも多く会いたかった。好きなアーティストのライブに何の不安もなく行けるようになって欲しかったし、友人と気軽にご飯を食べる約束がしたかったし、電車で知らない人の咳や大声で会話する人に怯えながら乗車するのはもう嫌だった。
挙げていけば、ひとつひとつはとても些細なことかもしれないけれど、小さなことをひとつひとつ回復していった先にあるのが、私が取り戻したい生活なんだと思う。
なかなか会えない姪の誕生日に絵本を贈ろうと決め、大きな書店の児童書コーナーに足繁く通うもなかなか選べずにいた。考えれば考えるほど、「物語」を贈るというのは、ずいぶんと責任が伴う行為のように思えてくる。ひとりで読めるようになるのはまだまだ先だけれど、たとえば女の子だから男の子だからと何かを押し付けるようなことはしたくないし、未来の選択肢を狭めるような変な先入観も与えたくない。
絵本を選ぶってこんなに難しいものだったかなと、我ながらさすがに考えすぎではと呆れてしまう。結局はたくさんのものの写真と名前が載った「はじめての図鑑」のようなものを贈ることにした。これからどんどん言葉を覚えて、身の回りの出来事に興味を持っていくんだろうと思う。
本当なら直接手渡して反応を確かめたいところだけれど、まだしばらくはお預けが続くんだろう。生活が戻ってくることを願っています。
(ライター・書評家)
(2021年7月22日更新 / 本紙「新文化」2021年7月8日号掲載)