第27回 口笛と楽器

 サンキューもソーリーも、当たり前のように使い過ぎていて、「ありがとうはサンキュー」といちいち日本語から英語に翻訳することなく使いたい場面で自然と口をついて出てくる。
 最初に使い始めたきっかけも、それがいつなのかも覚えていないけれど、日本語より軽妙で、言葉というより口笛に似たその響きを、小学生の頃の私はすでに楽しんでいた。英語教育がまだ必須ではなかった時代、小学校も高学年になるまで、ローマ字のことを英語だと思っていた。
 先日、パン屋のイートインでクロワッサンを食べながら本を読んでいたら、二人組の女子高生が勉強を教え合う声が聞こえてきた。このご時世で飲食店ということもあって声は抑えられ内容までは聞き取れなかったけれど、時折、小さく爆ぜるような笑い声とともに普段の生活ではあまり聞くことのない単語が耳に飛び込んできて思わずページから顔を上げた。
 「コマウォ」
 ありがとう、という意味の韓国語で、よく耳にする「カムサハムニダ」よりだいぶフランクな言い方なので目上の人には使えないけれど、狭いテーブルに開いたノートを覗き込みながら、同じ問題に取り組む二人の関係性にはとてもふさわしい言葉だった。気になって耳を澄ましていると、「ミアネ」という単語も聞こえてきて確信する。これは韓国語で「ごめんね」という意味。彼女たちの間で、この2つの韓国語の意味は共有されている。
 私も去年から韓国語を勉強し始めた。とはいえ所詮は自己流。ハングルの読み書きを覚えたところで停滞し、電車の駅名に添えられたハングルが読めるレベルでしばらく留まっていたけれど、ここ数カ月で自分でも驚くほど上達して、韓国ドラマを見ていても聞き取れる台詞が増えた。理由は実に単純で、韓国の芸能人に「推し」ができたからだ。
 応援している人の言葉が分からないという状態は思っていた以上に切ないもので、そういえば韓国語を勉強しようと思ったきっかけも、来日していた韓国の作家に通訳を介してしか小説の感想を伝えられない自分にもどかしさを感じたからだった。
 それまで抱いていた韓国語のイメージは、勢いのある強い言葉というものだったけれど、イベントに登壇した作家が話す韓国語は優しさの強弱がまるで楽器のようで、あの日、私の中の韓国語の解像度がぐっと上がったのが分かった。「隣りの国の言葉」から「目の前にいる、理解したいと思う人の言葉」になった。話せるようになりたいと思った。
 これからの若い世代の人たちはもしかしたら、サンキューやソーリーと同じような感覚で、「コマウォ」や「ミアネ」を使うようになるのだろうか。韓国の音楽はとても人気があるし、ドラマや映画も然り。もしかしたら、もうなっているのかもしれない。日常のちょっとした瞬間に、口笛や楽器のような言葉が響く。

(ライター・書評家)

(2021年6月28日更新  / 本紙「新文化」2021年6月17日号掲載)