数カ月ぶりに、朝の混み合う時間の電車に乗った。ホームに滑り込んできた車両の窓の一つひとつを食い入るように見つめながら、こうして毎日、普通に誰かの生活が続いていたことに不思議な思いが込み上げてくる。
ぎゅうぎゅうではないけれど、見知らぬ人と肩と肩がぶつかる程度には混んでいて、本を読むことは早々に諦めて車内の様子を観察する。一列に並んだつり革が、電車の揺れに合わせて前後左右に揺れている。
誰にも掴まれることのないたくさんの白い輪っか。私もまだなんとなく気が引けて、カーブのたびにかかる重力に耐えながら、まるで振り子のようだなと思う。右に左に揺られていると、鳩が飛びだす時計の画が浮かんできて思わず首を引っ込める。
7月にあるひとりの俳優が自死を選んだ日から、自分でも一体どうしたのかと思うほど毎日何時間もネットに上がっている彼の映像を見続けてしまうようになった。映像の中の彼はとてもキラキラしていた。彼の死を悼むたくさんの声を拾いながら、「どうして」という思いが日に日に大きくなっていく。
明日が来るのが怖い。瞬間風速的に巻き起こる思いに絡めとられて、一瞬でも死をこいねがったことのある人は多いのではないかと思う。私もおそらくその一人だけれど、私はその夜をたまたま越えることができた。偶然に。本当にそう思う。その時の思いがどれほど本気だったかなんて自分にも分からない。
たぶん私は納得したかったのだ。彼の映像を見ながら、インタビュー記事を読みながら、彼が引き返せなかった理由を見つけたかった。私になくて彼にあったものを。当然、そんなものが見つかるわけもなくて、毎日少しずつ、画面を見つめる時間も短くなっていった。
不謹慎な見方と言われれば何の反論もできないけれど、その代わり私は彼のことが、真摯に作品に取り組んできた一人の俳優としての彼のことが大好きになった。生前に魅力に気づけなかったことはとても残念だけれど、今は彼の遺した作品を一つひとつ受け取っている途中だ。
坂口恭平さんの『苦しい時は電話して』(講談社現代新書)を読んでいたら冒頭に「死にたいと感じているときは、熱が出ているときと同じ」というようなことが書いてあって、すとんと腑に落ちた。
体と同じように、心にも無理がくる。死にたいと思うことは特別なことじゃないと思えれば、友人に「風邪を引いた」と言うときの何気なさで「いま心が風邪を引いているんだ」って伝えられるんじゃないか。でも同時に、それがどんなに難しいか分かっているからこそ、坂口さんは自分の携帯電話の番号を公開して、いのちの電話ならぬ「いのっちの電話」で日々、話を聞き続けているのだろう。
今回の原稿は、ただまっすぐ、自分にだけに向けて書いている。朝は必ずやってくるから。これは、未来の私へのアドバイス。
(ライター・書評家)
(2020年10月15日更新 / 本紙「新文化」2020年10月8日号掲載)