4月に自粛が呼びかけられ始めてから、自宅と職場をたまに往復する以外、友人知人に会う機会もなく過ごしていた。突然に訪れた、人生の延長戦のような自由な時間に幾分戸惑いながら、ここぞとばかりに本を読んでいた。そしてそのうち、毎日のように通販サイトで洋服を買うようになった。1年を通して、春の洋服がいちばん好きだ。軽やかで控え目で、温みはじめた光と空気をたくさんはらんでくれる。
夜、灯りを落とした部屋で、枕元に放りっぱなしにしている読みかけの本を眺めていると、さっきまで読んでいた本の情景が浮かんでくることがある。像は結ばず、言葉そのものが飛び込んでくることもある。それはどれも、初めて出合った言葉の組み合わせや並びでできたものだった。
眠りに落ちるまでの短いあいだ、私は自分が少しずつ生まれ変わっていくのを感じる。今日獲得した新しい言葉を反芻しながら、意識を失うその瞬間まで、明日出会えるはずの新しい自分に思いをはせている。
生まれ変わる、ということについて考えてみると、私はかなり頻繁に生まれ変わっている実感がある。新しい音楽を聴いて生まれ変わり、夜更かしし過ぎた朝にカーテンの隙間から太陽の光が差し込み始める瞬間を目撃して生まれ変わる。前後のつながりも忘れるような光る1行に出合っては生まれ変わり、新しく手にした本の、ページのにおいに顔を埋めながら幾度も生まれ変わる。
新しい洋服を求めたのは、自分の生まれ変わった姿を確認するためだった。第三者に会うことで無意識のうちに済ませていた確認作業を意識的に行うため、私には新しい外見が必要だった。いまが、春でよかった。クローゼットから溢れた洋服たちを眺めながら思う。6月を迎え、夏のような気候の日も増えつつあるけれど、もうしばらくは春の装いを、光に透ける長い袖や風にたなびく長い裾を、淡い色合いを楽しんでいようと思う。
毎年の恒例となっていた5月の帰省は叶わないまま、いまだ予定すら立てられずにいる。小学生から大学までの十数年の間、ポリーと名付けた雑種犬を飼っていた。大学進学を機に上京した私は、ポリーの死を母からのメールで知った。父と弟はなぜかポリーを埋めた場所を教えてくれず、それでもふたりはきっと見晴らしのいい緑の多い場所を選んで埋めたのだろうと、勝手に安心している。
一度散歩に出ると、1時間でも2時間でも平気で楽しそうに歩く犬だった。畦道の真ん中で一休みしようと背中を撫でると、冬毛がごっそり手のひらに残った。小さな分身のようなそれを、初夏の風がさらっていく。衣替え、という言葉から連想した換毛期という言葉が、ふいに呼び起こした愛犬との思い出。こんな一瞬にもまた、私は生まれ変わっている、と感じるのだ。
(ライター・書評家)
(2020年6月11日更新 / 本紙「新文化」2020年6月4日号掲載)